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福岡高等裁判所 昭和55年(う)427号 判決 1982年6月29日

主文

本件控訴を棄却する。

理由

<前略>

所論は要するに、

「被告人両名は、

第一  昭和四八年一月六日午前零時頃酔余垂水市海潟二番地バー「和」の前を通りかかり、同店ホステス甲野花子(当二六才―仮名)に対し劣情を催し、同女と情交すべく甘言を用いて、同女を同店前より自動車に乗せ、同市中俣岩ノ上二、一三二番地の同市塵芥処理場付近に連れ出し、同車内において同女に姦淫をもとめたところ、同女がこれを拒否したため、被告人両名は共謀の上、強いて同女を姦淫しようと企て、同車内にて被告人Aにおいて同女の顔面を殴打し、同車から降りた同女を押し倒して交互に踏んだり蹴つたりして暴行を加え、その抵抗を抑圧して、強いて同女を姦淫しようとしたが、同女が抵抗したため、その目的を遂げることができず

第二  前記暴行により右花子が気を失うに至つたため、同女をこのまま放置すれば、前記犯行が発覚することをおそれ、むしろ同女を殺害しようと企て、共謀の上、同女を抱きかかえて前記塵芥処理場付近より約一五〇メートル北西の同市中俣岩ノ上六五番地の山林内の崖の上まで運び、同日午前零時三〇分ころ、同所において、被告人Aが両脇をかかえ、被告人Bが両足を持ち同女を約三〇メートル下の崖下に放り投げて落下させ、よつて同女に対し左大腿骨骨折の傷害を与え、右傷害に由来するショック及び急性栄養失調により同女を死亡するに至らせたものである。」

との本件公訴事実に対し、第一審判決は、第一の強姦未遂の事実についてはこれを認めて有罪の言渡しをしたけれども、第二の殺人の事実については、被告人両名によつて犯されたのではないかとの疑問は残るが、この疑問を解明して事実を積極的に認定するにたる証拠がなく、結局犯罪の証明がないことに帰するとして、被告人両名に対し無罪の言渡しをした。しかし、この無罪部分は証拠の取捨選択ないしはその価値判断を誤り、その結果事実を誤認したものであり、その誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、第一審判決は破棄さるべきである、というのである。

ところで、本件審理の手続的経過をみるに、右の第一審判決に対しては、先きに昭和五三年九月八日福岡高等裁判所宮崎支部において、原判決を破棄し、右の無罪部分たる殺人の点についても有罪の判決をなしたが、昭和五五年七月一日最高裁判所において、右殺人の点につき被告人両名の捜査官に対する各自白の信用性には疑問があつて、審理不尽ないし重大な事実誤認の疑いがあるとして、右の第二審判決を破棄し福岡高等裁判所に差し戻す判決がなされたものである。

そこで、記録を精査して第一審及び差戻前の控訴審が取り調べた一切の証拠の内容を吟味し、更に、当審における事実取調べの結果も加えて検討すると、結局、被告人両名に対する本件殺人の公訴事実については、これを認めるにたりる確証がなく、犯罪の証明がないものとして無罪の言渡しをなすべきであるとした第一審の判断は正当であり、同判決に所論のような事実誤認を発見することはできない。すなわち

一本件公訴事実につき、関係証拠により認められる事実は次のとおりである。

1 本件当時、被告人Aは兄の経営する運送業の手伝いをしており、被告人Bは高校三年生であつたが、昭和四八年一月五日夜、被告人Aは同Bを誘つてボーリング場に出かけ、その後垂水市海潟所在のバー「河」でビールなどを飲み、翌六日午前零時過ぎころ、付近道路にいたバー「和」のホステス甲野花子(以下、「花子」という。)と出合い、「食事へ連れて行つてやる。」などと言つて、同女を自分の自動車の助手席に乗せ、後部座席に乗つた被告人Bとともに、公訴事実記載の塵芥処理場前に連れて行つたうえ、被告人Aが単独で車内において、次いで、被告人Bとともに車外において執拗に同女を姦淫しようとしたが、同女から抵抗されたためその目的を遂げることができず、そのため、被告人有馬は、その腹いせから、また、同女から「飯も食わせないで、このけちが。」と悪口を言われたので、同女を蹴つたり踏んだりし、被告人Bもこれに便乗して同様の暴行を同女に加えたこと。

2 同女は同日から約一か月半経過した同年二月二一日、塵芥処理場の北西約一五〇メートルの山林内にある崖下(谷底)において、公訴事実記載の傷害を負つたうえ、同記載の原因により死亡しているのを発見されたこと。

3 被告人両名は、同女に対する強姦未遂などの犯行を終えた後、前記の自動車に乗つて塵芥処理場前を立ち去り、約四キロメートル離れた同市錦江町にある保養センターに行き、被告人Aの中学時代の同級生である従業員乙山梅子に対し宿泊の申込をしたが断られたため同保養所敷地内に駐車し、車内で寝て午前七時半ころ各自の家に戻つたこと。

4 花子は精薄者であつて、前記「和」の経営者の供述などによると、自分の肌着の買物もできず、平仮名を少し読み書きできる程度の知能であつて、バー「和」に来る若者らによつて、時折野外などに誘い出されて姦淫されていたようであり、このような場合、大抵は明け方までには店に戻つていたが、二、三日してから帰るようなこともあり、また、相当遠い所から歩いて帰ることもあつたこと。

二次に、殺人の事実につき、これに関する主な積極証拠は、被告人両名の捜査官に対する自白調書であるところ、右自白の信用性について疑問がもたれるならば、ほかに被告人らの殺人の所為を認定するにたりる証拠はない。したがつて、右自白を信用することができるかどうかについて検討する。

被告人両名は、いずれも被害者の死体が発見された日の翌日である同年二月二二日、警察署に任意出頭を求められて警察官の取調べを受け、同日夜、逮捕されたものであるところ、

被告人Bは、当初は殺人の事実を否認したが、同日中に、殺人は被告人Aの単独犯行であることを暗に示唆する趣旨の供述をし、翌二三日には殺人の共同犯行の事実を概括的に自白し、同月二四日には検察官に対しても同様の自白をし、同月二六日警察官に対し詳細な自白をし、以後、同年三月五日まで自白を維持した(司法警察員に対する同年二月二三日付ないし同月二七日付各供述調書計五通、検察官に対する同月二四日付及び同年三月五日付各供述調書)。次いで、同年三月二四日の家庭裁判所における審判では殺人の事実を否認したが、同月三〇日の検察官の取調べでは再び自白し、その後、同年五月一七日の第一審第一回公判においても殺人の公訴事実を認めている。しかし、同年九月一一日の第三回公判においてはこれを否認し、以後第一、二審(差戻し前から当審まで)を通じ否認を続けていること。

被告人Aは、逮捕当日とその翌日には殺人の事実を否認したが、同年二月二四日には自白し、それ以後同年三月五日まで自白を維持している(司法警察員に対する同年二月二四日付ないし同月二八日付各供述調書計四通、検察官に対する同年三月三日付及び同月五日付各供述調書)。しかし、同年三月二四日の家庭裁判所の審判においてこれを否認し、それ以後第一、二審(差戻前から当審まで)を通じ殺人の事実を否認していること。

右に明らかなとおり、被告人らの供述は否認と自白とが交錯し、自白は必ずしも安定したものではないが、とにかく多数回にわたつて捜査官に対し自白していたこと、殊に、被告人Bは第一審第一回公判においても殺人の公訴事実を認めていたこと、被告人らの各自白の内容は詳細で具体的であり、迫真的と思われる部分も含まれていること、被告人両名は当時少年であつたとはいえ重大犯罪について軽軽に虚偽の自白をするようにも思われないことなどを考慮すると、右各自白の信用性はたやすく排除できず、反対に被告人両名が同女を殺害したのでないとすれば、同女が何故に谷底へ転落したのか疑問である。もしこの点につき、同女が自ら転落せる蓋然性も少ないとすれば、被告人両名の殺人の犯行を認定しうるようにも思われる。

三しかしながら、更に詳しく吟味すると、右のように認定するについては次のような疑問(これは差戻し前の関係証拠に基づき上告審判決の指摘せる疑問点でもある)があり、これらの点に関する当審における事実取調べの結果によつても、右の疑問を払拭することができない。

1 先ず殺害の動機につき、被告人両名の自白によると、被告人らが前記一1記載のように姦淫の目的を遂げなかつたことの腹いせと花子から悪口をいわれたことから、同女の腹部や腰などを蹴つたり踏みつけたりしたところ、突然、同女が深い失神状態に陥り、息使いも苦しそうであり、このまま放置すると、同女は死亡してしまい被告人らの前記犯行が発覚するであろうし、また、同女を病院や家などに連れて行くならば命が助かるかも知れないが、やはり被告人らの犯行が発覚するので、むしろ同女を人目につかない前記一2記載の崖下に投げこんで殺害しようと考えた、というのである(ただし、被告人Bの初期の自白では、同女に対し上記の暴行を加えたところ死亡したので、その死体を運搬して崖下に投げこんだという。)。

しかしながら、被告人両名の自白調書自体でも明らかなように、事件当夜、被告人両名が花子を自動車に乗せて連れ出したことは他の男ら(丙、丁)によつて目撃され、また被告人Aにおいては事件の約半月前にも他二名とともに同女と肉体関係を結んでおり、したがつて、被告人らが同女を殺害し同女が行方不明などになれば、その容疑が先ず第一に被告人らに向けられる状況にあつたこと、更に、被告人らにおいて同日以前に公訴事実第二記載の崖縁まで出かけたことがなく、崖の状況については全く知らなかつたというのであるから、同女を崖下に投げこんだからといつて確実に同女を殺害しうるかどうか及び同女の死体の発見を完全に防止しうるかどうかの知識もなかつたものと思われること、その他、後記2で触れる同所付近一帯の暗さの程度などを考えると、右自白に述べられているような犯行の動機は、花子殺害の動機としては薄弱すぎるものである。なお、被告人両名が、前記一1記載の強姦未遂の犯行後に、同女に対し若干の暴行を加えたことは、被告人らが公判廷でも認めているところであるが、同女の死体解剖鑑定書などを見ても同女を右のような重篤な状態に陥らせた原因である暴行を推測させるような痕跡は見あたらず、同女の死体解剖の鑑定人城哲男の第一審公判における供述によれば、同女は谷底に転落し後記3掲記の重傷を負つた後にも相当長時間生存し、パンタロンのファスナーやガードルを引き裂いたりするほどの余力を残していた形跡のあることなどを考え合わせると、被告人らの暴行によつて同女が深い失神状態に陥つたなどという自白の信用性にも疑問がある。

2 司法警察員作成の実況見分調書(四通)、第一審裁判所の第一、二回検証調書及び差戻前の控訴審証人<省略>の供述記載などに現われる事実のほか当裁判所の検証調書(二通)によると、本件塵芥処理場前を含め同所付近一帯には人家はなく、街灯その他の照明設備も存在せず、事件当夜月が出ていなかつたことには疑いがなく、星が出ていたか曇天であつたかについて被告人両名の供述は分かれているものの、鹿児島地方気象台長作成の「気象資料の照会について(回答)」と題する書面によると、昭和四八年一月六日午前零時における同気象台観測雲量は「10-」(すなわち、雲量10でも雲に覆われないところがある。)であり、同日午前一時におけるそれは「9」であつたことが認められる。

他面、自白調書をみても、被告人らが同女を運搬する際に自動車の前照螢や懐中電燈などを利用したというような供述はなく、当裁判所の検証調書(二通のうち一通は昭和五六年一月三〇日の午後七時三〇分から同八時一五分までの間の夜間検証調書である。同検証当時闇夜ではあつたが、星は出ていた。)によると、闇夜において、公訴事実第一の強姦未遂の犯行現場である本件塵芥処理場前から南方の遠景を見ると、垂水市の街の明りがあるときは、これを背景として同処理場の建物及び二本の煙突の輪郭をはつきり確認することができ、また星が出ているときは、星空と山嶺とを区別することによつて同処理場前の東方から北東方の遠景に山があることを確認することができるけれども、同処理場前の北方はそばだつ樹木が背後にあるため四、五メートル離れると人影もよく分らず、同処理場前から西方に通ずるあぜ道の出入口も見分けることができない。とくに事件当夜は、垂水市の街の明りも消えていた時刻であつたことと、雲がほぼ全天を覆つていた蓋然性が強いことを考え合わせると、右処理場一帯は真暗又はこれに近い状態であつた疑いが濃い。

ところで、被告人両名の自白によると、被告人らは、失神した同女を運搬するため、被告人Aが同女の両肩を、被告人Bが同女の両膝付近を抱え持ち、被告人Aが先になつてうしろ向きで進み、被告人Bがやや斜になる位置で後から進み、本件塵芥処理場前から西方に通ずるあぜ道を約九十数メートル西進して崖付近に至り、同所の直前から北進し畑の畝の間などを通つて公訴事実第二記載の崖上に到達したというのであり、司法警察員作成の実況見分調書四通、当裁判所の検証調書二通及び当審証人<省略>に対する尋問調書によると、右運搬の距離は合計約二二〇メートルであつて、右自白にいうあぜ道は副員約1.1ないし0.8メートルの人ひとりがようやく通れる程度の細道であり、その大部分は南隣の畑との間に約0.5ないし0.7メートルの高低差があつて同畑の方が低く、更に右あぜ道は途中でわん曲し、畑と畑との間に段落などがあり、畑の畝にはえんどうの蔓をはわせる竹の支柱が無数に立てられていて、闇夜においては右あぜ道の幅員も、隣接する畑との境界や高低差も全く識別することができないので、照明器具を使用しなければ歩行も困難な状況であつたことが認められる。したがつて、被告人両名の自白調書に述べられているような方法で同女を運搬したとすれば、被告人両名は何度となく同女もろとも右あぜ道から南隣の低い畑にずり落ちるなどして運搬に著しい困難があつたものと思われるのに、被告人両名の自白調書をみてもそのような困難さを示すような状況は全く現われていないのである。このことに徴すると、右の自白調書に述べられていることが果して被告人らの実践の体験事実を示すのかどうか極めて疑問であり、被告人両名が公訴事実第二記載の崖上に到達した後の行動に関する供述部分についても右と同様の疑問が差し挾まれるのである。

なお、検察官作成の昭和五六年一〇月五日付実況見分調書は、同年九月三〇日の夜間で月は出ていないが、晴れた日に、体重六七キログラムの男子が体重四二キログラムの婦女子の両足を抱えこんで先頭に立ち、体重六一キログラムの男子が同女の両脇を抱えこんで後方に立ち、いずれも前向きに前記進行経路を進行した実験結果を記載したものであるところ、右実験は被告人らが自白する悦子の運搬方法とは異なる運搬方法によるものであるほか、事件当時とは雲量、運搬者及び被運搬者等についても条件を異にしているものであるから、右実況見分調書によつても右の疑問を払拭することはできない。

3 前掲鑑定書及び同鑑定人の第一審及び差戻前の控訴審における各供述によると、同女の死体に認められた主な生前受傷は、(イ)左大腿骨骨折、(ロ)左上腕内側皮下、皮内出血、(ハ)左腋窩から前胸部にかけての筋肉間出血であつて、頭部、顔面、肩部などに重大な生前損傷の痕跡は認められず、右(イ)の傷は、同女が転落の際左足を垂直にして地面に突きたてるような姿勢で着地したため生じたものと推認されるというのである。他面、前掲実況見分調書によると、被告人両名が同女を投げこんだという崖上から谷底までの高低差は約三〇メートルであり(四冊一〇二七丁等)、そのうち上方約二〇メートルは七〇度ないし八〇度の傾斜面でその上方部分に低木の類や草などが生えているが、谷底からその上方約一〇メートルの部分はほぼ垂直の岩石の絶壁であり、谷底には大小多数の岩石が存在していたことが認められる。

しかるに、被告人両名の自白によると、被告人らは、失神中の同女の両肩と両足を掴んでその身体を振り、できるだけ遠くに飛ぶようにして谷底に投げこんだ、投げこんだ後には同女の身体のずり落ちて行く音などとともに同女の悲鳴が聞こえ、あとは静まりかえつた、というのである。しかし、このような方法で谷底に投げこまれた場合、同女が丁度よく足を地面に突きたてるような姿勢で着地することになるかどうか、甚だ疑問である。差戻前の控訴審証人<省略>の供述記載にみられるように、同女の上半身の比重が相当大きいことを考えると、失神状態の同女が身体を水平にして谷底めがけて投げこまれた場合、むしろ上半身を下方にして転落し、頭部、顔面などを崖の斜面や谷底に激突させて重大な傷害を負う確率が大きいように思われる。同女が転落の途中で崖の傾斜面の上方に生えている樹木などに接触して姿勢が変わり、着地直前に足を地面に突きたてるようにして着地することも絶無とはいえないものの、やはりその可能性は極めて少ないように思われる。(なお、捜査当局の人体大のダミーを用いた投棄実験の結果フィルムを見ても、ダミーは、すさまじい勢いで、多くの場合頭部を下方に向けて、かつ、転落の途中で崖斜面の樹木などと激突しながら落下している。)そうすると、被告人両名が同女を自白調書に述べられているような方法で投げこんだかどうかについても疑問があり、当審においてもこれを打ち消すだけの資料は発見できない。

4 関係証拠によれば、花子は崖下に転落する前に裸足で付近の畑などを歩き回つたのでないかと疑われる形跡がある。すなわち、

同女が当夜はいていたハイヒール靴の左片方は、事件の朝、塵芥処理場付近に落ちており、また、靴の右片方は、死体の発見現場所の上方の崖の斜面に落ちていたことが認められ(五冊一一一九丁等)、他方、当審で新たに取り調べた靴下一足(当庁昭和五五年押第三九号の8)、前記死体解剖鑑定書の記載及び鑑定人の供述記載によると、同女の死体の両足の木綿製靴下の足裏部分などに多量の泥土が付着しているが、その泥土の色は茶褐色に近い色であつて、付着の程度は軽微なものではなく、右靴下の足裏部分などに泥土が塗りつけられたように相当厚く付着していることが認められ、更に、靴下を取り去つた後の右足の各指にも泥土が付着しているようである。

ところで、同女は谷底に転落した後、死体が発見されるまでの約一か月半の間、谷底に横たわつていたものであり、死体発見当時には谷底の上手から雨(六冊一六九九丁)によつて流されてきた小石、土砂などによつて上半身の一部などが埋められる状態になつていたから、その間に、多少の泥土が靴下に付着することも考えられるが、(この場合には、足裏部分に限らず靴下全体に付着するであろう。)しかし、死体発見当時、右足の部分は土砂に埋まつていなかつたこと(四冊一〇四〇丁等)を考えると、右靴下の多量の泥土は死体放置期間中の付着によるものとは認めがたく、更に、実況見分調書の写真から見られる谷底の死体付近にあつた土砂等(四冊一〇四一丁等)と靴下に付着していた前記茶褐色に近い色の泥土とは土質を異にしているようにも認められる(ただし、昭和四九年七月二三日付警察技師矢野勇男外一名作成の鑑定書には、靴下の足裏部分に灰色の土砂多量が付着しているとの記載があり、鑑定人城哲男の証言との間に食い違いがあるが、押収してある前記靴下によると、これに付着した泥土の色は灰色というよりは茶褐色に近いものである。)。なお、同女の右足に付着していた泥土の一部は、転落の際にはがれ落ちたり、その後の降雨によつて洗い落される可能性もあつたと考えられ、また、崖の斜面から発見された右片方の靴の内部には泥土の付着は認められない(五冊一一二一丁、二冊四四九丁等)。

以上の諸点にかんがみると、同女の死体の靴下の足裏部分などの多量の泥土は、同女が靴下だけの裸足で崖上の畑などを歩き回つたりした際に付着したものではないかという疑いがあり、ひいては、同女が、塵芥処理場前で被告人から暴行を受けた後、被告人らと一緒に帰ることを拒み、被告人らと出会うのを避けるため、被告人らの乗車せる自動車の進行した農道を回避して帰途に着き、あるいはその付近で見失つた左片方の靴を探し回つたが見つからず、そのため残つた右片方の靴を手に持ち、暗夜、付近を歩き回るうちに崖際に近づき、自ら誤つて転落したのではないかという疑いが生ずる。

5 被告人Bの高校生の友達であつた戌及び己の司法警察員に対する各供述調書によると、被告人Bが事件当日(一月六日)午後二時ころ、たまたま戌と出会つた際、同人に対し、「昨夜、Aとボーリング場で一緒になり、その後、同人にバーに連れて行かれ、それから、足の悪いびつこの女(花子を指す)を塵焼場前に連れて行き肉体関係をしようとしたができなかつたので、腹が立ち、『お前は歩いて帰れ』といつて、女を車の外にほつたらかして帰つてきた。」という話をしたほか、その二日くらい後、己に対しても同じような話をしているのであるが、これらの話の内容は、被告人両名が第一審及び差戻前の控訴審公判で殺人の公訴事実に対する弁解として述べているところとほぼ一致するものである。

ところで、被告人Bが友人二人に対し右のような話をした真意は必ずしも明らかではないが、同被告人が被告人Aとともに花子を塵芥処理場前で姦淫しようとしただけにとどまらず、真実、同女を崖上から谷底へ投げこんで殺害するという重大犯罪を行つていたものであるならば、その発覚の端緒にもなりかねないような話を友人などにすることはありえないように思われる。更に、原審証人丁、同庚の各供述記載や右両名の司法警察員に対する各供述調書によると、被告人Bは事件の二、三日後ころ、バー「和」のマスターから花子が店に戻つてきていないことを聞かされて心配し、それ以後、同女の死体発見のテレビニュースに接するまでの間、平生から親しくしていた同じ部落の青年団の役員をしている庚方に、学校からの帰途、合計一〇回くらい立ち寄り、「花子はまだ戻つてこないのか。まだ見つからないのか。」、「あの辺(塵芥処理場付近の意)には、ひら(崖)があるから、もしかしたら、花子は落ちて死んでいるのではないか。」などと真剣に花子の身の上を案じる言動を示していたというのである。これらは被告人Bの性格などをどのように理解すべきかにもよるが、特段の事情のない限り、これまた同被告人の有利な情況証拠の一つに数えてよいようにも思われる。

なお、被告人Aが一月八日保養センター従業員乙山梅子らに対し「一月六日の午前一時ころよりかなり前から来ていた旨警察に話してくれ。」と依頼した事実は強姦未遂のアリバイ工作にすぎないと解する余地が十分あるのであつて、これを殺人の犯行のアリバイ工作であると断定することは相当でなく、また、被告人Aが少年鑑別所入所中に被告人Bに対し字を書いた紙片を渡した事実があり、その記載内容が「(女を)捨てたことは、しなかつたように言え。」との趣旨であつたか、又は「したことはしたように、せんことはせんように言え。」との趣旨であつたかについて判断が分れているところ、そのいずれであつたかを明認できるに足る証拠はない。

更に、被告人Bの父から示談交渉などを依頼されていた差戻前の控訴審証人<省略>の供述記載によると、同人は、「弁護士から、少年であるから執行猶予の可能性があり、保釈も可能であると言われたので」、第一審第一回公判前後に合計七、八回にわたつて、単独で又は被告人Bの父や叔父とともに、同被告人に面会して、再三にわたり殺人の事実を自白するよう説得していたというのであるから、被告人Bの第一審公判における殺人の事実の自白を信用性の高いものとみることは相当でない。

以上の疑問点があり、これらは記録を吟味し当審における事実取調べの結果によつても、依然として解消しないので、第一審判決が被告人両名の捜査官に対する殺人の事実についての各自白の信用性について疑問をさしはさみ、諸事実につき犯罪の証明がないとしたことは相当というべきである。

かくして、原判決には所論のような証拠の取捨選択又はその価値判断を誤り事実を誤認した違法があるとは考えられない。論旨は理由がない。

それで、刑訴法三九六条に則り本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(平田勝雅 吉永忠 池田憲義)

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